地下に埋もれた“根っこ”のように不細工で、人知れぬ存在でありながら、内に赤々と燃えるような情熱を秘めている。私はそんな人間が好きだったことと、絵の方で、よくバランスということが問題になる、いわゆる平衡のとれた画面をつくるというわけだが、姓名判断などの、姓と名とを互いにバランスよく整えるという考え方も、一考に値するものと思った。 白いフジの花の、一面に垂れ下がったシーンというものは、私にはどうにも美し過ぎて不似合いな気がした。 だからせめて名前の方だけでもできるだけ醜いものにして、上下のバランスをとる必要があったし、また、白と赤との鮮やかなコントラストなどを考慮して、やっと朱根(アカネ)という雅号を掘り当てたという次第。 いつだったか、洋画の牛嶋(憲之)先生から「本当とに覚えやすい名前ですね」と褒められて恐縮したことがあったが、一般には、“末根”、“糸根”、“シュコン”などと雑多な書き方読み方が跡を絶たず、時には私と家内を取り違えて、家内に向かって「先生!」と呼びかけたりする人まで出て、「どうもあかんねえ」という始末で、何度も本名の“晃”に戻すことを考えたが、その都度、「自分にはあらゆる面で抵抗の多いものの方が向いている」と思い直して、使い古したチューブのような雅号をまた捨てきれずにいる。 年を重ねるにつれ、名前と言うものが、多かれ少なかれ“我執”を伴うものとわかって、作品が完成しても無署名で済ますことが多くなった。 寂しい気もするが、これをどうやら私の名前についての到達点になるようだ。 XXXX年 白藤朱根 著
白藤様 今日は、立派な作品を見せていただきありがとうございました。 感動いたしました。 今も妻に私が受けた感動を伝えるため言葉を使っていますが、視覚を通して受けた白藤様の宇宙を表現することはできません。 私が得た感性で受けた体験を私の言葉で伝えるだけです。 多くの作品が一つ一つ技法を変え表現されていました。 表現の方法が変わっても、内面にある宇宙が伝えてくる強烈な力は、太い直線で貫かれているのを感じました。 小品の中の技法に引き込まれているうちに、100号の大作を観賞したのと変わりない大きな迫力を感じました。 いつか大作を拝見したいと思いました。 熊本だけの展覧会ではもったいないと私も感じます。 熊本には、芸術を受け入れる土壌がないのでしょうか。 熊本には、芸術家を育てるだけの経済的なゆとりがないように感じます。 次回の展覧会を楽しみにしています。 ますますご健勝でご活躍されますようにお祈り申し上げます。 平成元年11月5日
ギャラリー 絵の前を立ち去りがたかった。 いずことも知れぬ荒涼とした場所で無言の叫びを上げる群像、白と黒の絵の具だけを用いたモノトーンの幻想世界。 孤高の日本画家・白藤朱根氏の近年の作品は、仏が姿を見せぬ涅槃(ねはん)図のようにも見えた。 信仰、あるいは宗教的な感情抜きにしては生まれ得なかっただろう。 白藤氏は大正8年熊本市生まれ。戦後すぐ、電電公社(現NTT)に勤めながら、ほとんど独学で絵を学ぶ。 日本画によって幻想、抽象の世界に分け入った草分け的な存在である。 その白藤氏の初の自選展が、熊本市千葉城町の県立美術館分館で開かれている(21日まで)。 昭和29年以降の作品56点を出品、この40年間の画業を一望できる内容となっている。 初期には働く人をテーマにした作品など、やや毛色の違うものもあり興味深い。また、2点出されている具象画も捨て難い。 年代を経るごとに抽象の度が強まり、「翔翳」(昭和37年)などの代表作が誕生。 青や緑を基調にした微妙な色合いが特徴で、絵の具を重ねることで光が屈折して深みが出ている。 近年はモノトーンへと変容しているが、銅版画のメゾチント技法の効果を意識し、黒の地色を塗った上に面相筆で緻密に白を重ねている。 「無名のほこらに」(平成6年)「銀色の襞砂はるけく」(同5年)といった作品群で、74歳という高齢に達した画家の旺盛な制作意欲を感じさせられる。昭和24年に県美術協会賞、同25年に熊日総合美術展グランプリ、同37年には現代日本美術展コンクール賞を受賞、また日本国際美術展などに招待出品。 しかし、そうした実力に反して、白藤氏の県内での知名度は不当と思えるほど低い。 いずれかの団体に所属するのが通常で、師弟関係もはっきりしている日本の画壇にあって、師を持たず、戦後の一時期を除いて無所属で通してきたためかもしれない。 画家同士の付き合いのためにさく金も時間もなかった結果だそうだ。 もっとも白藤氏が名声や地位に淡白な“超俗の画家”であることは、関係者の間では知られている。 「美に対する感動を分かち合いたい」というのが本人の最大の望みで、会場で作品の購入を打診されても断っていたくらいだ。 本展を多くの人が見ることが、報われることの少ないこのベテラン画家に対する最高の慰謝になると思う。(山口)
人目にさらされて、ガラクタのようになった絵をリアカーに積んで、夜のネオン街を急ぐ。 刺すような冷たい雨あし。 こみ上げる泪。 妻と二人、夜おそくまで厚紙を折って、アイロンで糊づけした即席の額縁、ガリ版刷りのカタログ。 会場がまだつり電球で、客はおとそ気分の酔い客ばかり。 やっと家に辿りついて、落書きだらけの芳名録を仏壇に供え、南無阿弥陀仏。 またこみ上げる泪。 ご先祖様よ、個展とは悲しいものですね。 1998年 白藤朱根 著
写生を終えるとオジサンは、画帳を大事そうに小脇にし、みんなに“サヨウナラ”を言って、桜の花の舞う坂道を下りて行った。 着流しの着物に、鳥打帽姿のオジサンは、天気の良い休日などに、表で遊んでいる私たちのところへヒョッコリやって来て、子供の肖像やレンガ山の風景などを写生した。なかでも、子供たちを描く時のオジサンは、とても楽しそうで、目の色まで輝いているように見えた。 道端の木株に腰を下ろしたオジサンの肩口から、画帳をのぞきこむ子供たちの視線が春の日ざしに濡れたように輝きクレヨンの動きをいつまでも追っていた。 オジサンの画帳にも描かれていた“十二宮”さんの境内は、赤土色で、子供たちの格好な遊び場であった。 社殿には、私の祖父の名の書かれた絵馬もあって、私はよくその絵馬の“牛若丸”や“弁慶”のりりしい姿に見とれながら、馬乗り遊びの汗を拭ったものだ。 “祖父は絵師だった”と聞いていたが、詳しいことは知らない。ただ、薄い和紙に線描きした画稿が戸棚一杯詰まっていたり、ところどころにしみのある北斎の和とじの画集とか“万職図考”と書かれた絵手本などが残されていたりして、私は小学五、六年にもなると、そんな絵をまねては、山水だの、花鳥だのと手当たり次第に描きまくった。そうしたことで、私は自然に絵を描くことが好きになったが、後になって時々“絵って何だろう”と考える時、ふとあのクレヨン画のことを思い出して“あれこそ、本当の絵のあるべき姿ではなかったのか”と、悟ったりした。 “人を押しのけても勝とう”という手段をえらばぬ我欲ばかりがきしみ合い、文化人づらした悪徳漢が横行する醜いオトナ社会から、早く脱皮しなければと思う。“まだまだ…”と思っているうち人生なんてアッという間に過ぎ去ってしまう。 “世界と別れを告げる日─”が、駆け足で近づきつつあるこのごろになって、日常のふとしたはずみにズーンと黒いカタマリのようなものがからだの芯を突き抜けて、足がすくむような気持ちになる時がある。 ある詩人は“空にはポケットがある…”と、その美しい絵本の中でうたっているが、“私はいったい何を、どんな絵を、この世のポケットに残し得たのだろうか”と、自分に問いかけては、いつもむなしい思いにかられるのである。 ちょうど吹きだまりの紙屑が、木枯らしにあおられるように、人生の終着駅近くで、すり減った心の安息所として、幼時を回想することの、めっきり多くなったころごろである。 白藤朱根著 1954.2.2
すばらしい芸術作品に出会った時、人々は何とも言いようのないしみじみとした幸福感に包まれ、心の奥底にまでまばゆい光を投げかけられたような一種の恍惚とした気分になり、その場所を立つ去りがたくする。 またある時は、画面の中に吸い込まれるような宇宙の霊気というようなものと一体化した気分になり、全身に鳥肌が立つようなことさえ起り、その場に釘付けになった感じで立ち去りがたい気分になる。 だから、一回観たきりでは納まらず何度でも訪れてみたくなる。 芸術作品とは、人々の心にそのように慈光を投げかけることのできるもののことであり、美術館などの使命もまた、そのような作品を展示するための場所だと言えると思う。 一点の絵を描き終わってしみじみと自作を観て、やがて自然に絵に対し手を合わせるような気分になるか、ならないかで作品の出来、不出来を判定する、そうした気品高い凜とした気概が画家には必要ではないかと思っている。 白藤朱根著
引き汐のように遠のいて行く現実の風景、ドラマ映像。 それらは次第にうつつの垣根を越えて薄いとばりの中に退いてしまう。 大方の記憶もまた一つ、喪失の葉舟にあたって砕け散る。 耳の奥所でちっち蝉が休むことなくすすり鳴いても 終焉の使信は駅伝のバトンのように否応無しに近づいている。 あかね 1989/07/09
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地下に埋もれた“根っこ”のように不細工で、人知れぬ存在でありながら、内に赤々と燃えるような情熱を秘めている。私はそんな人間が好きだったことと、絵の方で、よくバランスということが問題になる、いわゆる平衡のとれた画面をつくるというわけだが、姓名判断などの、姓と名とを互いにバランスよく整えるという考え方も、一考に値するものと思った。
白いフジの花の、一面に垂れ下がったシーンというものは、私にはどうにも美し過ぎて不似合いな気がした。
だからせめて名前の方だけでもできるだけ醜いものにして、上下のバランスをとる必要があったし、また、白と赤との鮮やかなコントラストなどを考慮して、やっと朱根(アカネ)という雅号を掘り当てたという次第。
いつだったか、洋画の牛嶋(憲之)先生から「本当とに覚えやすい名前ですね」と褒められて恐縮したことがあったが、一般には、“末根”、“糸根”、“シュコン”などと雑多な書き方読み方が跡を絶たず、時には私と家内を取り違えて、家内に向かって「先生!」と呼びかけたりする人まで出て、「どうもあかんねえ」という始末で、何度も本名の“晃”に戻すことを考えたが、その都度、「自分にはあらゆる面で抵抗の多いものの方が向いている」と思い直して、使い古したチューブのような雅号をまた捨てきれずにいる。
年を重ねるにつれ、名前と言うものが、多かれ少なかれ“我執”を伴うものとわかって、作品が完成しても無署名で済ますことが多くなった。
寂しい気もするが、これをどうやら私の名前についての到達点になるようだ。
XXXX年 白藤朱根 著
白藤様
今日は、立派な作品を見せていただきありがとうございました。
感動いたしました。
今も妻に私が受けた感動を伝えるため言葉を使っていますが、視覚を通して受けた白藤様の宇宙を表現することはできません。
私が得た感性で受けた体験を私の言葉で伝えるだけです。
多くの作品が一つ一つ技法を変え表現されていました。
表現の方法が変わっても、内面にある宇宙が伝えてくる強烈な力は、太い直線で貫かれているのを感じました。
小品の中の技法に引き込まれているうちに、100号の大作を観賞したのと変わりない大きな迫力を感じました。
いつか大作を拝見したいと思いました。
熊本だけの展覧会ではもったいないと私も感じます。
熊本には、芸術を受け入れる土壌がないのでしょうか。
熊本には、芸術家を育てるだけの経済的なゆとりがないように感じます。
次回の展覧会を楽しみにしています。
ますますご健勝でご活躍されますようにお祈り申し上げます。
平成元年11月5日
ギャラリー
絵の前を立ち去りがたかった。
いずことも知れぬ荒涼とした場所で無言の叫びを上げる群像、白と黒の絵の具だけを用いたモノトーンの幻想世界。
孤高の日本画家・白藤朱根氏の近年の作品は、仏が姿を見せぬ涅槃(ねはん)図のようにも見えた。
信仰、あるいは宗教的な感情抜きにしては生まれ得なかっただろう。
白藤氏は大正8年熊本市生まれ。戦後すぐ、電電公社(現NTT)に勤めながら、ほとんど独学で絵を学ぶ。
日本画によって幻想、抽象の世界に分け入った草分け的な存在である。
その白藤氏の初の自選展が、熊本市千葉城町の県立美術館分館で開かれている(21日まで)。
昭和29年以降の作品56点を出品、この40年間の画業を一望できる内容となっている。
初期には働く人をテーマにした作品など、やや毛色の違うものもあり興味深い。また、2点出されている具象画も捨て難い。
年代を経るごとに抽象の度が強まり、「翔翳」(昭和37年)などの代表作が誕生。
青や緑を基調にした微妙な色合いが特徴で、絵の具を重ねることで光が屈折して深みが出ている。
近年はモノトーンへと変容しているが、銅版画のメゾチント技法の効果を意識し、黒の地色を塗った上に面相筆で緻密に白を重ねている。
「無名のほこらに」(平成6年)「銀色の襞砂はるけく」(同5年)といった作品群で、74歳という高齢に達した画家の旺盛な制作意欲を感じさせられる。昭和24年に県美術協会賞、同25年に熊日総合美術展グランプリ、同37年には現代日本美術展コンクール賞を受賞、また日本国際美術展などに招待出品。
しかし、そうした実力に反して、白藤氏の県内での知名度は不当と思えるほど低い。
いずれかの団体に所属するのが通常で、師弟関係もはっきりしている日本の画壇にあって、師を持たず、戦後の一時期を除いて無所属で通してきたためかもしれない。
画家同士の付き合いのためにさく金も時間もなかった結果だそうだ。
もっとも白藤氏が名声や地位に淡白な“超俗の画家”であることは、関係者の間では知られている。
「美に対する感動を分かち合いたい」というのが本人の最大の望みで、会場で作品の購入を打診されても断っていたくらいだ。
本展を多くの人が見ることが、報われることの少ないこのベテラン画家に対する最高の慰謝になると思う。(山口)
人目にさらされて、ガラクタのようになった絵をリアカーに積んで、夜のネオン街を急ぐ。
刺すような冷たい雨あし。
こみ上げる泪。
妻と二人、夜おそくまで厚紙を折って、アイロンで糊づけした即席の額縁、ガリ版刷りのカタログ。
会場がまだつり電球で、客はおとそ気分の酔い客ばかり。
やっと家に辿りついて、落書きだらけの芳名録を仏壇に供え、南無阿弥陀仏。
またこみ上げる泪。
ご先祖様よ、個展とは悲しいものですね。
1998年 白藤朱根 著
写生を終えるとオジサンは、画帳を大事そうに小脇にし、みんなに“サヨウナラ”を言って、桜の花の舞う坂道を下りて行った。
着流しの着物に、鳥打帽姿のオジサンは、天気の良い休日などに、表で遊んでいる私たちのところへヒョッコリやって来て、子供の肖像やレンガ山の風景などを写生した。なかでも、子供たちを描く時のオジサンは、とても楽しそうで、目の色まで輝いているように見えた。
道端の木株に腰を下ろしたオジサンの肩口から、画帳をのぞきこむ子供たちの視線が春の日ざしに濡れたように輝きクレヨンの動きをいつまでも追っていた。
オジサンの画帳にも描かれていた“十二宮”さんの境内は、赤土色で、子供たちの格好な遊び場であった。
社殿には、私の祖父の名の書かれた絵馬もあって、私はよくその絵馬の“牛若丸”や“弁慶”のりりしい姿に見とれながら、馬乗り遊びの汗を拭ったものだ。
“祖父は絵師だった”と聞いていたが、詳しいことは知らない。ただ、薄い和紙に線描きした画稿が戸棚一杯詰まっていたり、ところどころにしみのある北斎の和とじの画集とか“万職図考”と書かれた絵手本などが残されていたりして、私は小学五、六年にもなると、そんな絵をまねては、山水だの、花鳥だのと手当たり次第に描きまくった。そうしたことで、私は自然に絵を描くことが好きになったが、後になって時々“絵って何だろう”と考える時、ふとあのクレヨン画のことを思い出して“あれこそ、本当の絵のあるべき姿ではなかったのか”と、悟ったりした。
“人を押しのけても勝とう”という手段をえらばぬ我欲ばかりがきしみ合い、文化人づらした悪徳漢が横行する醜いオトナ社会から、早く脱皮しなければと思う。“まだまだ…”と思っているうち人生なんてアッという間に過ぎ去ってしまう。
“世界と別れを告げる日─”が、駆け足で近づきつつあるこのごろになって、日常のふとしたはずみにズーンと黒いカタマリのようなものがからだの芯を突き抜けて、足がすくむような気持ちになる時がある。
ある詩人は“空にはポケットがある…”と、その美しい絵本の中でうたっているが、“私はいったい何を、どんな絵を、この世のポケットに残し得たのだろうか”と、自分に問いかけては、いつもむなしい思いにかられるのである。
ちょうど吹きだまりの紙屑が、木枯らしにあおられるように、人生の終着駅近くで、すり減った心の安息所として、幼時を回想することの、めっきり多くなったころごろである。
白藤朱根著 1954.2.2
すばらしい芸術作品に出会った時、人々は何とも言いようのないしみじみとした幸福感に包まれ、心の奥底にまでまばゆい光を投げかけられたような一種の恍惚とした気分になり、その場所を立つ去りがたくする。
またある時は、画面の中に吸い込まれるような宇宙の霊気というようなものと一体化した気分になり、全身に鳥肌が立つようなことさえ起り、その場に釘付けになった感じで立ち去りがたい気分になる。
だから、一回観たきりでは納まらず何度でも訪れてみたくなる。
芸術作品とは、人々の心にそのように慈光を投げかけることのできるもののことであり、美術館などの使命もまた、そのような作品を展示するための場所だと言えると思う。
一点の絵を描き終わってしみじみと自作を観て、やがて自然に絵に対し手を合わせるような気分になるか、ならないかで作品の出来、不出来を判定する、そうした気品高い凜とした気概が画家には必要ではないかと思っている。
白藤朱根著
引き汐のように遠のいて行く現実の風景、ドラマ映像。
それらは次第にうつつの垣根を越えて薄いとばりの中に退いてしまう。
大方の記憶もまた一つ、喪失の葉舟にあたって砕け散る。
耳の奥所でちっち蝉が休むことなくすすり鳴いても
終焉の使信は駅伝のバトンのように否応無しに近づいている。
あかね 1989/07/09