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  1. 雅号を“朱根”とした理由

    地下に埋もれた“根っこ”のように不細工で、人知れぬ存在でありながら、内に赤々と燃えるような情熱を秘めている。私はそんな人間が好きだったことと、絵の方で、よくバランスということが問題になる、いわゆる平衡のとれた画面をつくるというわけだが、姓名判断などの、姓と名とを互いにバランスよく整えるという考え方も、一考に値するものと思った。
    白いフジの花の、一面に垂れ下がったシーンというものは、私にはどうにも美し過ぎて不似合いな気がした。
    だからせめて名前の方だけでもできるだけ醜いものにして、上下のバランスをとる必要があったし、また、白と赤との鮮やかなコントラストなどを考慮して、やっと朱根(アカネ)という雅号を掘り当てたという次第。
    いつだったか、洋画の牛嶋(憲之)先生から「本当とに覚えやすい名前ですね」と褒められて恐縮したことがあったが、一般には、“末根”、“糸根”、“シュコン”などと雑多な書き方読み方が跡を絶たず、時には私と家内を取り違えて、家内に向かって「先生!」と呼びかけたりする人まで出て、「どうもあかんねえ」という始末で、何度も本名の“晃”に戻すことを考えたが、その都度、「自分にはあらゆる面で抵抗の多いものの方が向いている」と思い直して、使い古したチューブのような雅号をまた捨てきれずにいる。
    年を重ねるにつれ、名前と言うものが、多かれ少なかれ“我執”を伴うものとわかって、作品が完成しても無署名で済ますことが多くなった。
    寂しい気もするが、これをどうやら私の名前についての到達点になるようだ。

  2. 個展を見てくださったo氏の感想

    白藤様
    今日は、立派な作品を見せていただきありがとうございました。
    感動いたしました。
    今も妻に私が受けた感動を伝えるため言葉を使っていますが、視覚を通して受けた白藤様の宇宙を表現することはできません。
    私が得た感性で受けた体験を私の言葉で伝えるだけです。
    多くの作品が一つ一つ技法を変え表現されていました。
    表現の方法が変わっても、内面にある宇宙が伝えてくる強烈な力は、太い直線で貫かれているのを感じました。
    小品の中の技法に引き込まれているうちに、100号の大作を観賞したのと変わりない大きな迫力を感じました。
    いつか大作を拝見したいと思いました。
    熊本だけの展覧会ではもったいないと私も感じます。
    熊本には、芸術を受け入れる土壌がないのでしょうか。
    熊本には、芸術家を育てるだけの経済的なゆとりがないように感じます。
    次回の展覧会を楽しみにしています。
    ますますご健勝でご活躍されますようにお祈り申し上げます。
    平成元年11月5日

  3. 熊本日日新聞  平成6年(1994年)3月15日 火曜日

    ギャラリー
    絵の前を立ち去りがたかった。
    いずことも知れぬ荒涼とした場所で無言の叫びを上げる群像、白と黒の絵の具だけを用いたモノトーンの幻想世界。
    孤高の日本画家・白藤朱根氏の近年の作品は、仏が姿を見せぬ涅槃(ねはん)図のようにも見えた。
    信仰、あるいは宗教的な感情抜きにしては生まれ得なかっただろう。
    白藤氏は大正8年熊本市生まれ。戦後すぐ、電電公社(現NTT)に勤めながら、ほとんど独学で絵を学ぶ。
    日本画によって幻想、抽象の世界に分け入った草分け的な存在である。
    その白藤氏の初の自選展が、熊本市千葉城町の県立美術館分館で開かれている(21日まで)。
    昭和29年以降の作品56点を出品、この40年間の画業を一望できる内容となっている。
    初期には働く人をテーマにした作品など、やや毛色の違うものもあり興味深い。また、2点出されている具象画も捨て難い。
    年代を経るごとに抽象の度が強まり、「翔翳」(昭和37年)などの代表作が誕生。
    青や緑を基調にした微妙な色合いが特徴で、絵の具を重ねることで光が屈折して深みが出ている。
    近年はモノトーンへと変容しているが、銅版画のメゾチント技法の効果を意識し、黒の地色を塗った上に面相筆で緻密に白を重ねている。
    「無名のほこらに」(平成6年)「銀色の襞砂はるけく」(同5年)といった作品群で、74歳という高齢に達した画家の旺盛な制作意欲を感じさせられる。昭和24年に県美術協会賞、同25年に熊日総合美術展グランプリ、同37年には現代日本美術展コンクール賞を受賞、また日本国際美術展などに招待出品。
    しかし、そうした実力に反して、白藤氏の県内での知名度は不当と思えるほど低い。
    いずれかの団体に所属するのが通常で、師弟関係もはっきりしている日本の画壇にあって、師を持たず、戦後の一時期を除いて無所属で通してきたためかもしれない。
    画家同士の付き合いのためにさく金も時間もなかった結果だそうだ。
    もっとも白藤氏が名声や地位に淡白な“超俗の画家”であることは、関係者の間では知られている。
    「美に対する感動を分かち合いたい」というのが本人の最大の望みで、会場で作品の購入を打診されても断っていたくらいだ。
    本展を多くの人が見ることが、報われることの少ないこのベテラン画家に対する最高の慰謝になると思う。(山口)